音のことば

“Who doesn’t like music?” その通りだ。音楽というものは人間にとって重要なものであるようだ。私もまた、自分を音楽を愛する者の一人として認識している。私にとって音楽は人生において間違いなく欠かせない、特別なピースだ。特別なのだ。”Yeah you’re right. Everyone loves music…” 確かに、音楽はほとんど全ての人が楽しむものでもある。けれど、私はそれに対し、一般化されたくない種類の強い感情を感じる。 では、私は音楽に対してどのような固有の感性を持っているのか、試しに言語化してみることにした。

 

春休みにイエローストーンに行った。大学を早朝に出発し、12時間のドライブのあと、やっと宿に着いた。夕食にはピザを食べにいったが、「作るのに失敗して、時間がかかっている」などと言われ、ずいぶんと待たされた。次の日は朝6:30出発で動物達を観察しに行く。その日の夜はさっさと眠って、明日から待ち受ける一週間に備えなければならなかった。寝る支度を済ませ、キングサイズのベッドの真っ白いシーツの中に身を滑り込ませる。そして、待ち構えたように、両耳にイヤホンを身に付ける。

 

その時感じたものは、私が音楽に対して抱く最も強い種類の感情だった。目を閉じ、何も見えない中で、大きめの音量で、ただひたすら聞こえてくる音に耳を澄ませる。そしてその音は私をどこか別の世界に導く。真っ黒な視界に、淡く光る色が奥行きを持って現れる。そして私を、強い力でその世界へ引っ張っていく。胸が締め付けられるような感覚がする。ため息が出る。身体に特別なエネルギーが流れて、私はそれを何かしらの形で放出したくなる。目をつぶっているにもかかわらず、精神は覚醒し、いつもはベッドに入った途端に眠ってしまう私が、気が付けば一時間も音楽に耳を澄ませ続けている。これらの感覚は、「イエローストーン」にいるという、実感のない、まるで夢のような事実と共鳴することで、さらに強く私を襲う。

 

音楽に対して最も激しい揺さぶりを感じるとき、私はこういう感覚に陥る。あるいは、別の形で音楽が私を包むこともある。

 

私たちはグランドキャニオンに繋がる、広大な砂漠の中の一本道を、音楽を聴きながら車で走っていた。そして、音楽についての話をしていた。運転していた彼が言った。「音楽が何か特別な時間と結びつくことがあるよね。例えば、今流れているこの曲をいつか聞いたら、この旅行について思い出すと思う。」それは私の好きな曲だった。聴くたびに頭がぼうっとして、星空の下、どこまでも続く広い草原の真ん中にいて、心が洗われていくような気持ちになる曲だった。旅行のあと、疲れて早い時間に眠ってしまったため早朝に一人起きた私は、また同じ曲を聴き続けていた。旅の中で見た風景、彼らと話したこと、彼らと過ごした時間について考えながら。グランドキャニオンの広大な景色が、その曲がもたらすイメージと呼応する。そして思う。私は素晴らしい時間を過ごした。それは彼らにとっても同じだっただろうか。これからの人生において、この曲と結びつけられたその時間は、私たちにとって何か意味のあるものであり続け、何かしらの形で私たちをもう一度結び付けてくれるのだろうか、と。

 

音楽が私にとって何なのか、一言で表すことは難しい。いくら大事だとはいえ、プロフェッショナルとして音楽に人生をかけているわけではないから。でも、それは私の人生の様々な場所に入り込み、何か特別な力をもたらす。上に書いたような形でないことも多い。例えば、踊っているときの感覚だ。リズムの振動を身体の中に取り込み、聞こえてくる音のイメージを動きにそのまま結びつける。ダンスは、その音楽に対する自らの感覚を表現する最も優れた方法の一つであると思う。ダンスという「ことば」で音を表現することは純粋に楽しく、私はその「ことば」を使えることに感謝する。

 

音楽という極めて感覚的なものごとをこうして言語化するのは面白い作業だ。そして、音楽の「ことば」は私が述べた以外にも様々な形を取れるだろう。みなさんは、どんな「ことば」であなたにとっての音楽を表しますか。

 

“No Sleep” (Martin Garrix feat. Bonn)

https://www.youtube.com/watch?v=JxzKNHfNRdI

 

“So Close” (NOTD & Felix Jaehn ft. Georgia Ku & Captain Cuts)

https://www.youtube.com/watch?v=5uV82m-U7Vg

 

スパークル” (RADWIMPS)

https://www.youtube.com/watch?v=a2GujJZfXpg

 

A Week Out In The Wild - Yellowstone

Yellowstone, the very first national park in the U.S., was one of the places I had longed to visit. So, going there with wildlife professionals seemed too good to be true. I felt as if I were dreaming until I finished the whole trip. But here I am with the memories of the amazing experience and the vivid images of nature. The beauty of Yellowstone was breathtaking and the encounters with the wildlife living there were marvelous. On the first day I arrived there, I felt as if I were in a safari park - I could not believe all the animals walking around me were wild. But gradually I came to understand that I was in a very special place to witness something that animals usually do not show to people. Their gracefulness and mysterious atmosphere kept overwhelming me.

 

One day we were walking in an open field, the same ground as bison walk on. Detecting a group of humans coming toward them in the distance, a group of bison, which had been grazing, ran away hurriedly. Since bison are usually very peaceful animals that move slowly, this was an extraordinary scene where I directly felt their nerve in the air. Only this would have made a special experience. But I was lucky enough to come across another serendipitous sight.

 

Stunned by the magnificent view that nature created and not being able to move for a while, a few of us were left far behind the other people of the group. As we moved forward in the vast grass field, we found a bighorn sheep with beautiful horns standing alone. I felt thrilled to see that animal up so close. Then, there came another sheep. And next to him, there were others too. It was a group of bighorn sheep. I was struck by them. While we quietly observed them, one of them started to move. Others followed. Eventually, the whole group walked across in front of us up to a hill, and they stopped. They seemed to be looking at something. What I saw on the other side of the landscape were a group of pronghorns. Bighorn sheep on the right, pronghorns on the left in the back. There I stood for a while. It was a magical feeling. It was exactly what I had seen in documentary movies. But this time, I was inside it, with all those beautiful animals right in front of me. I did not figure out what they were thinking about. They did not appear nervous but they were not completely relaxed. I felt something, but all I could do was look at them carefully so I could catch any sign that might help me understand what was on their mind. This was a very sacred moment for me. I was in the place for wild animals. It was fantastic being inside of their world even just a little. I intruded into their property, so to say. They have their own world and life and we were mere outsiders. But still, they allowed us to share that short time and the air with them. This was a wonderful gift I could ever ask for.

 

This kind of experience was something I had waited for all my life as a person who has always been strongly attracted to wildlife and studies ecology. This trip made me think about my passion and life goal again and it will certainly be one of the critical points in my life. I have no idea what I will be doing in my future, but one thing I can say for sure is that the wonder of nature and wildlife is what has continued to fascinate me and led me all the way up to here. And probably and hopefully, it will lead me to another new, farther and exciting place down the road. Whatever I might end up doing, I do not want to forget about all the creatures that make this world so beautiful and enchanting.

異国で暮らすということ

シアトルという街に住んでいる。コーヒーの街。シーフードの街。テック産業の街。坂の街。

異国の地に住むというのは不思議な経験だ。だって、何もかもが自分が知ってきた世界とは異なっていて、何もかもが新しい発見になるのだ。人が、風景が、物事の進み方が異なっていて、その街に新しく来た者は否応なくそのシステムの中に組み込まれることになる。

 

海外に一か月以上住むというのは、私にとって初めての経験だった。アメリカに来たのは初めてではない。それに、アメリカン・カルチャーは日本でも比較的知られている。それでも、私のこの国での物語は、飛行機を降りたその瞬間から、私が経験することになる新しい世界の色で染められていた。私に出会って一番初めにホストマザーがくれた大きなハグ、車に乗りこんで荷物を後部座席に投げるそのやり方、広いハイウェイとそこを恐れもなく高スピードで走る周りの自動車。全てが私が住んできた世界とは異なっていた。それからの毎日は、いつもいつも新しい発見と驚きの連続だった。知らないこと、見たことのないものが、たくさんあった。

 

もう半年も経つ。初めて来たころと比べれば、日常生活でびっくりすることは少ない。新しいと思うことも少ない。知らないことだらけだとしても、私はこの場所にしばらく住むことになっていた。だから、色々な人に聞いたり、色々と試したり、観察したり、そうすることでこの場所で心地よく過ごす方法を見つけてきた。そして、少しずつそのシステムの中に組み込まれてきた。流れるプールみたいなものだ。水の流れがあって、人の流れがある。あるいは人の流れがあって、水の流れがある。いつまでも途切れない流れだ。その中にいきなり放り込まれて、初めはまともに歩くことができない。流されるし、周りの人にぶつかるし、自分の場所を確保することもできなければ、流れに足をすくわれずに自分のペースで歩くこともできない。それでも、だんだんと慣れてきてどうすれば良いのかわかってくる。だんだん周りの人と同じように歩けるようになる。ときにはぶつかるし、転びそうになることもあるけれど、少しずつリラックスしてきて流れの一部になることができる。

 

その過程は私にとっては中々楽しかった。今でももちろん楽しい。だって、バスに乗っている時間が、カフェで初めての味の紅茶を飲みながら聞こえてくる会話が、ちょうど暗くなり始めた時間の帰りの景色が、これほど新鮮で、まるで物語の中にいるように感じられることなんて、同じ暮らしを続けていてどれだけあるだろうか。生きているだけで、新しいことがこれほど飛び込み続けてくることなんて、どれほどあるだろうか。もっともっと知りたい、体験したい、そう思うことが、あるだろうか。良いことばかりだったわけではない。困惑したこと、悲しい思いをしたこと、悩んだこと、それもたくさんあった。それでも、どうして困惑したのか、悲しくなったのか、悩んだのか、ここにいる人たちが何を考えているのか、それでさえ新しい発見だった。そしてその数々の発見をする中で、変わっていく自分と、変わらない自分をも、発見するのだ。

 

残り数か月しかないとを考えると、とても焦る。そんな短い期間じゃ知りきれないことが山ほどある。もっともっと見て、経験して、話を聞いて、知りたい。でも、きっと同時に、どれだけ長くいたとしても、「異国」である以上、全てを知ることは不可能で、その学びの過程は果てしない。だって、私はここの小学校に通わなかった。ここの中学のクラス風景を見なかった。高校の卒業パーティーも経験しなかった。ここの家庭で育てられなかったし、周りの大人たちが話すことも聞いてこなかった。そうだとしても、少しでも多く知って、この文化の中にいる人たちともっとわかり合いたい、そう思うのだ。もしもあと三年住んでも、同じように思うだろうか?それはわからない。でも、今のこの気持ちは、事実だ。

 

住んでいる寮は大学の一番端にあって、リビングの窓からはシアトルの街の中心から外れた部分の景色が見える。ときどき、夕食を作りに自分の部屋を出ると、ルームメイトがおらず、リビングの電気が消えていて、窓の街の光だけが輝いていることがある。何度もみた景色だ。それでも、その風景を見るたびに私はため息をもらさずにはいられない。決してシアトルの一番の眺めではないし、何気ない風景なのに、それでも美しいと感じる。その小さな光の一つひとつが、私がここで見たもの、感じたこと、ここにいる意味を表しているように思えるのだ。この風景を見られるのもあと少しだと思うと、寂しい気持ちになる。それでも良かった、と思う。この地を知れて。限られた時間だとしても、私の人生の一部になってくれたことには変わりはないから。

 

異国の地で暮らすのが良いことばかりだと単純に言いたくはない。それでも、人生の中の、とても素敵な時間だなと、小さな窓の外の景色を眺めながら私は考える。

 

Quick Bread

“Quick Bread”と聞いて、何を想像するだろうか。私は、甘くなくて、味付けもほとんどない、もさもさとしたパンを想像した。だって、”Quick”に食べるパンって、特別においしいわけがない。第一、一番安かった。

 

節約生活をしているためできる限りお昼ご飯も家で作るようにしているのだが、その日はどうしても外で買う必要があった。昼に用が重なり、やっと時間ができたのが2:00ごろだったのだ。すっかり腹が減って戦ができない状態になっており、一番近くにあった大学のカフェに喉から手が出る思いで入った。そこにはパンの棚があって、ベーグルやらマフィンやらが色々と売られていた。ただ、どれも3ドルほどはしてしまう。「高いなぁ」そう思いながら値段表を見ていると、他と比べて唯一、低い値段設定のものがある。Quick Bread。なんだこれは...。聞いたこともない。しかし、一番安い以上、私が手に入れるべきパンはQuick Breadで決まりだ。しかし、いくつも種類のあるパンの中でどれがQuick Breadなのか見当が付かない。それでも、これはベーグル、これはシナモンなんちゃら、これはホウレンソウホニャララ...と打ち消していくと、一つだけが残った。四角い茶色いパン。「ほう、もしやこれがQuick Breadか」手に取り、茶色い紙袋に入れる。レジにもっていくと、袋の外から形を見て、 “Quick Bread?”と聞かれる。自信はないが、頭をひねった結果の結論なので、間違っていたらごめんなさいと思いつつも “Yes” と言う。”It’s $1.99. Would you like your receipt?” 軽やかに会計を済ませ、やっとありつける。

あまりにおなかが空いていたのでむしゃむしゃと一気に食べてしまった。はぁおいしかった。しっとりとしたバナナ味のパウンドケーキみたいなものだった。おなかを少し満たせたことで安心し、ここでQuick Breadについてはしばらくすっかり忘れてしまう。

 

数か月後、急にQuick Breadのことを思い出し、食べたくて仕方がなくなってしまった。大学内のスーパーのパンコーナーに行ってみる。Quick bread, quick bread… 「ない…。」がっくりし、たまたま右方向のカフェに目を移すと、なんとQuick Breadらしきものがレジのすぐ横に並んでいる!足早にそちらに行き、一番大きなQuick Breadを手に取り、無事購入。今回はレモン味だが価格は安定の$1.99。スーパーから出るや否や、食べ始めてしまう。しっとりとした生地にしみ込んだ、ギルティーな甘いレモン風味の味。「お、おいしい...」

そのあたりからすっかりQuick Breadオタクになってしまった。雪の日の朝、カフェに向かう途中で、朝食の代わりにQuick Breadを買って食べる。色々なことに疲れてしまったのに、お気に入りの紅茶のお店が空いていなかった日に、Quick Breadを買って食べる。食べたくてどうしようもなくなったときに、Quick Breadを買って食べる。

あるとき、Quick BreadはTea Breadとも呼ばれることを知った。確かに紅茶に合う味だ。しかし、私はどうしてもQuick Breadと呼びたいし、Tea BreadオタクではなくQuick Breadオタクでいたい。だって、Quick Breadという地味な名前からは想像もつかない、このおいしさに惹かれているのだから!

 

Quick Breadは決して「甘くなくて、味付けもほとんどない、もさもさとしたパン」ではない。アメリカで太ってしまうことを懸念している身としてはあまり食べすぎるわけにはいかないのだが、しばらくは自分へのご褒美としてときどき食べることだろう。

みなさんもシアトルに来たら、Quick Bread、試してみてくださいな。

4つの枕とのくらし

去年の9月にシアトルにやってきた。海外での長期生活が初めてなのはさることながら、ひとり暮らしをするのも初めてである。大学の寮で暮らしているわけだが、入居時には部屋は空っぽで、ベッドカバーも揃える必要があった。節約生活を心がけているので、地元の安いお店にベッドセットを探しに行った。お世話になっていたアメリカ人のおばさんが連れて行ってくれたのだ。お店にはなかなか可愛いものも多いのだが、良いデザインほど値段は高い。世の道理である。その中でひときわ目を引くものがあった。25ドルのセット。他のものは安くても50ドルほどであるので、破格である。うすいピンクの生地にゾウのあしらわれたデザインで、なかなかかわいらしい。よし、これで決まり。

セットなので、何が入っているのか表示を確認してみると、comforter, decorative pillow, sham..などと書いてある。20年以上たたみの上で眠ってきた身としては、西洋のベッドのパーツに関するボキャブラリーがない。おばさんにも聞いてみたがよくわからない。まぁこれで一応そろうのか、と思っていると、おばさんが白い枕を2つ持ってきた。「$4」と書いてある。ずいぶんと安いものだ。「これもあったほうがいいわよ!」え、でも2つも...?と戸惑っていると、「私なんて枕8つもあるの!枕がたくさんあるのはいいことよ、オホホ」と言われる。ほんとかいな。まぁ一つ4ドルだしいいか、余分な枕のある生活も。

いよいよ、味気ないベッドに購入したゾウ柄のピンクのベッドセットを備え付ける。パッケージを開けてみると、あれ、すでに枕が2つ入っている。「?」待って、別に枕2つ買ってあるんですけど...

そういうわけで、枕4つの生活が始まった。今まで枕なんて一つなのが当たり前だと思っていた。家ではもちろん一つだし、ホテルでも、一人分のベッドに対して一体どうして2つも枕があるのだろうと思っていた(しかも一つの枕も大きい)。ところがこれから一人分の狭いベッドに対して4つも枕を所持することになるのだ。なんて贅沢な生活。というか、そんなにあってどうするのだ?

しかし、実際に4つの枕と共に暮らしてみると、これがなかなかに快適なのである。使う枕の奥にもう一つ枕があると寝心地が向上するし、かたい椅子の背もたれに枕を置けば身体も痛くならない、ベッドの上で何かするときは、枕を作業台にしてちょうどよい高さに調整することもできる。何よりも、ふかふかなものにたくさん囲まれながら眠るのは非常に心地が良い。そして、枕の一つ(shamという種類の枕であるようだ)には「WILD&FREE」などと書いてあって、野生動物の勉強をする私にとってはピッタリである。将来新しいベッドを揃えるときもきっと、いくつもの枕を用意しよう。

 

異国の地での生活は、枕というひょんなものに対する新しい発見まで与えてくれる。この枕の話は、シアトルでの生活において、なんだか象徴的な出来事のような気がする。

 

それにしても、枕を一人で8つも使いこなしているおばさんに比べれば私なんてまだまだである。学ぶことはたくさんある。